ミュージシャンのシェールは彼女のヒット曲「Believe」が節目の記念日を迎えることも信じられないようだ。
シェールが年齢を重ねること、そして時間を巻き戻すことについての考えを語った。
グラミー賞受賞シンガーのシェールは、雑誌のインタビューで、1998年の大ヒット曲「Believe」の25周年について語った。彼女がはっきりと言ったように、彼女はその節目に驚いていないようだ。「そんなにすごいことじゃないわ。」と彼女は言った。
今年5月に77歳になったシェールは、加齢は友達かと聞かれ、”いいえ!”と答えた。
さらに、亡き母で女優のジョージア・ホルトが老いを “気にしなかった”(ホルトは96歳まで生きた)のとは反対に、自分は老いを嫌う人間だと説明した。「70歳に戻れるなら何でもするわ!」と笑顔で打ち明けた。
@todayshow #Cher talks about her iconic song “Believe” turning 25 years old, and her thoughts on aging and entering her 70s. #TODAYShow ♬ original sound – TODAY Show
今年の9月、レッドカーペット(映画のプレミア上映会)やザ・ステージ(英国の週刊新聞)、そしてファッション・ウィーク(服飾の新作発表会)でスーパースターのようなスタイルを披露したシェールが、「グッドモーニング・ブリテン誌」の取材に応じ、ファッションと美容に関する2つのことを明かした。
「80歳になるなんて信じられないわ。そして、私はまだジーンズを履いていて、まだ長い髪をしていて、いつもと同じことをしているでしょう。」
ただ、シェールがすぐに白髪になるとは思わない方がいい。昨年、雑誌の独占インタビューに応じたシェールは、塩と胡椒のようなスタイルはまだ受け入れられそうにないと語っていた。「(白髪になるのは)他の女性にとっては問題ないこと。でも私はやらないわ!」
この気持ちは、シェールが内面で感じていることと年齢を一致させることを本当に求めていないことを示している。
「私の家族の遺伝子はとても素晴らしいわ。老いを感じないことが若さを作るのかどうかはわからない。私は流行には敏感よ。若い友達もたくさんいるし、古い友達もいるわ。正直なところ、私は若さを感じようとはしていないの。若くなろうともしていない。私は私です。ただうまくやっているだけよ。」
本名 Cherilyn Sarkisian (出生時)
生年月日:1946年5月20日
出生地:カリフォルニア州・エルセントロ
国籍:アメリカ合衆国
職業:歌手・俳優
ジャンル:ポップ・ディスコ・ダンス・フォーク
活動期間:1963年~
配偶者:ソニー・ボノ(1964~75年)グレッグ・オールマン(1976~79年)
著名な家族:チャズ・ボノ
シェール(Cher)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州エル・セントロ出身の歌手・女優。
愛称はポップスの女神(The Goddess of Pop)。芸歴はゆうに50年を超えており、日本では知名度は低い方だが、世界的には歌手・女優・コメディショーのホスト・ファッションアイコンとして幅広い分野で活躍し成功を収めているレジェンドとして尊敬を集めている。
父親ジョン・サーキシアンはアルメニア系、母親ジャッキー・ジェーン・クラウチはチェロキー・インディアン、アイルランド、ドイツ等の血を引く。両親はシェールが10ヵ月の時に離婚したが、その後も数回結婚・離婚を繰り返したという。母親は後にジョージア・ホルトの名前で女優としてテレビに出演するようになり、シェールも子供時代にエキストラとして出演したことがある。しかし母親の再婚・離婚に伴い転居の多い貧しい幼少時代であった。
16歳で学校を中退し、ロサンゼルスに移って演技のクラスを受けるようになる。歌手のソニー・ボノに見出され18歳で彼と結婚。”ソニー&シェール”の名で活動を始め、「アイ・ガット・ユー・ベイブ」などがヒットしたが、1975年に離婚。
デュオと並行して、1966年頃よりソロとしても活躍し始める。チェロキーの血筋を全面に押し出したイメージ戦略で「悲しきジプシー」「ハーフ・ブリード」「ダーク・レディ」(邦題は「悲しき恋占い」)などが全米No.1に輝き、日本でも頻繁にラジオで流された。
その後はディスコサウンドも取り入れた「Take Me Home」(邦題は「誘惑の扉」)が1979年に大ヒット。がその後に発表した「Prisoner」以降はヒットに至らず、1982年の「I Paralzye」を最後に1987年までの5年間、女優業の方へ活動をシフトした。1987年にゲフィン・レーベルに移籍し、マイケル・ボルトンやデスモンド・チャイルドらがソングライティングに加わったロック色の濃いアルバム『Cher』をリリース。ファーストシングルの「I Found Someone」が10位、セカンドシングルの「We All Sleep Alone」が14位とシングルヒットを飛ばした。アルバムもプラチナディスクを獲得している。
その後、ピーター・セテラとのデュエット「After All (Love Theme From Chances Are)」が6位とヒットを放っている中で、アルバム『Heart Of Stone』リリース。レコーディングには、当時彼女と付き合っていたボン・ジョヴィのリッチー・サンボラも加わっている。このアルバムからのファーストシングル「If I Could Turn Back Time」が3位とヒットを放つと、続く「Just Like Jesse James」が8位、サードシングルの「Heart of Stone」も8位とヒットシングルを連発した。特に「If I Could Turn Back Time」のプロモーションビデオはアメリカ海軍の軍艦上でロケが行なわれ、多数の水兵のエキストラを前にしてのT-バックスーツでの出で立ちが耳目を惹いた。
その後、1991年に『Love Hurts』。ワーナーへの移籍を経て、1995年に『It’s a Man’s World』をリリースするものの、ビッグヒットには到らなかった。
しかし、1998年にヨーロッパで先行してリリースしたシングル「Believe」が大ヒット。その後、各国で1位を記録した。このヒットを受け”Believe”は米国でも1位を獲得し、世界を席捲した。この曲により、彼女はグラミー賞最優秀ダンス・レコーディング賞を受賞し、自身初のグラミー受賞を果たしている。しかも、この「Believe」は世界中のヒット曲をランキングしたワールドチャートにて現在歴代1位という輝かしい大記録を保持している。
彼女の持つ記録の一つに「1960年代から2010年代の50年間、各年代にビルボードチャートで1位に輝いたヒット曲を持つ唯一の歌手」というものがある。ビルボードチャートといえば、最新の100曲と200曲を取り扱う「Hot 100」と「Hot 200」が有名であるが、そのほかにもジャンル別にチャートが存在する(例:ACチャート、EDMチャートなど)。
シェールはそれらのチャートで各年代毎に1位を記録した楽曲を保持している。特に60・70年代には全米1位の曲を4曲保持するなど、当時の彼女の人気ぶりがうかがえる(その後1999年にビリーヴで25年振りに全米1位を獲得)。80年代はACチャートで、90年代後半以降は、彼女のメインファン層であるゲイ・コミュニティに向けたダンス・ミュージック系の曲でその系列のチャートで1位を席巻している。
1982年のロバート・アルトマン監督の『わが心のジミー・ディーン』から本格的に女優としての活動を始める。
1983年の『シルクウッド』でゴールデングローブ賞の助演女優賞を、1984年の『マスク』でカンヌ国際映画祭の女優賞を、1987年の『月の輝く夜に』でアカデミー賞の主演女優賞を受賞した。『月の輝く夜に』受賞時におけるシースルーのドレスは今でも語り継がれている程人々にインパクトを与えた。これまでもそのエロチックな姿態や衣装で何かと注目を集めたシェールだが、プライベートな嗜好でも常に話題性に富み、臀部にはバタフライの刺青を入れるなど全身にあらゆるタトゥーを入れていた事は有名であった。
1960年代からの長い芸歴ではあるが、あくまでも音楽活動がメインであり、映画ファンにも知られるようになったのは女優活動も活発に行うようになった1980年代後半からである。
「ウィキペディア」より引用
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